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ハングルク・バレエ団 『人魚姫』 [ダンス/レビュー]

舞踊批評って、難しいですね。今回のレビューは、自分にとっては特別な作品(ダンス評論賞をいただいた作品『冬の旅』がこのバレエ団)であったため、全力で(笑)書きました。ある方々に見ていただいたのですが、具体的な舞台描写が不足していること(この舞台を見ていない人に分かるかどうか)、評論者の想いが熱すぎて自分の感想になっている点がある、言葉使いが難解なものを使用している点が気になる、同じキーワードが並んでしまっている、物語から構築したバレエを解釈することで再び分解してしまっている点がやり過ぎというアドバイスをいただきました。勉強になりますね。

今後の自分の舞踊批評に対して、これまでにない課題を見せてくれたレビューになりそうです。ぜひご高覧いただき、感想などお寄せいただければ研鑽になります。ぜひお願いします☆(artliteracy03☆yahoo.co.jp *☆を@に変更下さいませ。)

『人魚姫』/ハンブルク・バレエ団

日時:2009年2月22日(日)愛知県芸術劇場大ホール

振付:ジョン・ノイマイヤー

人と人との関係がいつでも平等であってほしいという願いは、普遍的なものだろう。しかし、この願いがいつも叶えられるとは限らない。どれだけ誠意を尽くして相手を愛しても叶わないことがある。「愛している」という想いさえも伝わらないことがある。だが、それでも人は生きていく。


 『人魚姫』は2005年にデンマークの偉大な童話作家ハンス・クリスチャン・アンデルセンの生誕二百年を記念し、デンマーク・ロイヤル・バレエ団のためにつくられた。今回、日本で上演されたのは2007年に創作されたハンブルク版(オーケストラの編成が約100名から約70名に変更されるなど一部が変更されたもの)で、全二幕、14場からなる約2時間の作品だった。

 舞台は、詩人(イヴァン・ウルバン)が友人エドヴァルド(カーステン・ユング)とヘンリエッテ(カロリーナ・アギュエロ)の結婚式から帰郷する船上のシーンからはじまる。この作品では全体をとおして、舞台を横断する波形のブルーの照明ラインがシーンに応じて上下し、ときには数を変えながら舞台の状況や登場人物の心情をあらわしていた(冒頭シーンでは開幕前に床付近で輝いていた波のラインは開幕と同時にゆったりと上昇し、甲板の波打ち際に相当する部分で停止した)。おだやかな波打ち際から暗い海底へと落ちていく詩人の涙は、アンデルセンの実ることがなかった友人への恋心なのだろう。子どもたちに愛される童話作家という印象の強いアンデルセンだが、彼自身は幼少期の貧しさと作家として受けた栄光の両極のはざまで葛藤しながら苦悩した人物であり、作品は人間への深い洞察が反映されている。本作品『人魚姫』では、詩人(=アンデルセン)のエドヴァルトへの想いは人魚姫に反映されて展開されていく。
 海底でのシーン、歌舞伎に着想を得たという長い裾の衣装を足ひれに見立てた人魚姫/詩人の創造物(エレーヌ・ブシェ)が登場する。白く塗られた顔にはラインが描かれ、未知の生物というような不可解な動き方をする姿は、これまでの「愛らしく美しいお姫さま」という従来のイメージを打ち壊す。擬人化された存在ではなく、そこには魚の下半身を持った想像上の生き物という不気味な姿があったように思える。詩人の動きと同期するように踊る人魚姫は、この段階では完全に詩人と一体化しており、彼の感情・想いのコピーでしかない。しかし、やがて詩人のエドヴァルトへの想いが彼女自身の王子への恋心に変わる瞬間が訪れる。
 嵐の海、船上から荒れ狂う海へ転落したエドヴァルトを人魚姫は救う。嵐というきっかけが彼女の想いを自立したものへと変えたのか、想いの自立そのものが嵐のような心情だったのかを測ることはできないが、浜辺に横たわるエドヴァルト/王子が自分の命の恩人としてヘンリエッテ/王女と恋に落ちた瞬間、人魚姫の王子を愛する気持ちは決定的に自覚されたのだと思う。恋を知った瞬間から悲劇がはじまっていくのだ。
 「ひと足歩くたびにナイフで抉られるような痛みが走るだろう」そう宣告されながら手に入れた人間の足。引き換えに失ったのは聴く者の時間を失わせ、ときに船を沈めてしまうこともあるという美しい声だ。「あなたの命を救ったのは私です。」そのひとことを伝えることが出来ない人魚姫。どれだけ想いを募らせようとも届かず、人魚姫の想いなど知らない彼は王女との結婚準備を進めていく。手に入れた苦痛と悪化していく状況、幸せに暮らしていた過去(海の中の世界)という両極のはざまで押しつぶされそうな人魚姫の心情は、彼女の暮らす人間世界の窮屈な部屋そのものだ。部屋の床は消失点に引き込まれるかのように中央に向かって斜めにせり上がり、居心地が悪そうに震える人魚姫の姿はとても小さくみえる。整えられた環境を自ら飛び出し、理想を追い求める者の末路がこんな部屋なのだとしたら、何と悲しいことであろうか。しかし、開拓者だけでなく既存の枠組みに従うだけの未来にも、やがて閉塞された状況が待っていることを示唆するシーンがこの作品には用意されている。宮殿での結婚式のシーンへと場面が転換されるとき、人魚姫の部屋はそのまま舞台後方へと下がっていきセットの一部となるが、部屋の中に入った既婚者らしいカップルたちが結婚を前にした乙女たちの喜び踊る姿を退屈そうに眺める場面がそうである。狭い部屋に収まった彼らが、窮屈さに不満を持つどころかそれが自然であるかのように整然と並んでいるのが興味深かった。また、舞踏会の最中に1組のカップルで男性が強い調子で女性を制しているシーンが見られたことなどから、結婚という祝福された関係であっても権力構造が生まれ、そこに制度的な拘束が生まれる不幸が垣間見えた。狭い部屋=制度の中でうんざりしたように乙女たちを眺めている彼らにとっての結婚は、窮屈な人生の原点でしかない。華々しく展開される祝宴の光と影、人魚姫の夢見た理想の世界の現実がここにある。
 真っ赤なドレスを着せられ、愛する王子の結婚式で祝福しなければならないという状況の中、人魚姫には幾度かのチャンスが訪れる。「王子と踊りたい、王子に想いを届けたい。」懇願しながら踊る人魚姫の視線はいつも王子を追いかけるが、舞踏会の人の渦が切ない視線を遮ってしまう。どこまでも愛する人を追い求め、生きるすべての理由がそこに集約された者の姿がどれだけ痛々しいか。それでも残酷な運命は、容赦なく悪ふざけを重ねていく。落胆していた人魚姫の前に、友人たちの手によって王子が連れてこられたのだ。あまりの喜びに硬直する人魚姫。今、この瞬間に想いを告げることが出来れば、あるいは彼女の苦しい状況は変わるかも知れない。・・・だが、人魚姫は私たちにとって滑稽としか見えない動きで踊るばかりなのだ。例えそれが彼女なりの精いっぱいの愛の告白であったとしても王子にはそう見えない。彼は一瞬の沈黙のあと、詩人へ贈ったのと同じ「バカなヤツだな」という意味ともとれる仕草をして、去っていく。願いが叶えられないばかりか、その想いさえも伝えることが出来ない不条理が暗幕のように舞台を覆っていく。

 人は不条理な状況を乗り越え、生きていこうとする。新たなチャレンジをして不幸にも失敗を経験することはあるが、それでも生きていこうとする。夢をあきらめ、少しだけ狡賢さを身につけるなどの代償を払うことで乗り越えていくのだ。人魚姫も自らの環境を飛び出し、理想を求めて生きようとした。しかし、そこで払った代償があまりにも大きかった…いや、王子の命を奪って生き続けていくことは可能だったが、彼女はそれを選ばなかった。これによって、人魚姫の物語は不条理に従ったまま永遠に終わったかのように思える。しかし、ハンブルク・バレエ団の『人魚姫』はここで終わりはしなかった。          
ラストシーン、詩人と人魚姫をそれぞれが経験した悲しみによって再び結びつけ、不条理さえ超越しようという試みを私たちに提示したのだ。詩人と人魚姫の同一性から離反、そして統合というプロセスは、人が自らの人生へチャレンジするときと同じ過程ではないだろうか。既存の価値観から旅立ち、未知の世界へと挑戦する。それによって既存の価値観を更新していくというダイナミックな流れである。
詩人の腕に抱かれた人魚姫はそっと中空へと昇っていき、星になるように消えていった。美しく静かな忘れがたいシーンである。この場面は原作には見られず、ノイマイヤーが創作として加えた部分だ。さまざまな視点から物語を編み上げた振付家は、最後に不条理の中で闇に沈んでいく運命の人魚姫に新たな世界へと旅立つ希望を与えたのではないだろうか。

 19世紀に描かれた物語の中からノイマイヤーが見出したものは、人が苦難を乗り越え、生き続けることへの希望の光なのだ。


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