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366.0プロジェクト・レビュアー募集のお知らせ 2006年12月22日(金) [366.0 プロジェクト]

<366.0プロジェクト・レビュアー募集のお知らせ>

こんにちは、はじめまして。レビューを書くことによってこのプロジェクトに参加しているかめだけいこと申します。

 この366.0プロジェクトは、『次世代を担う若手演劇人による共同プロジェクトの名前です。名古屋・東京の2都市に密着した展開を予定しており、公演・ワークショップ・シンポジウムなどの活動を計画しています。「366.0」は東海道線の名古屋・東京間の距離「 366.0km」を表した数値であり、明日でもないが遥か未来でもない、366日後という「遠くない将来のリーダー」をめざす、次の世代の意欲をイメージしています。』

http://butai.org/labo/nt.htm より ―

 では、ここでいう「リーダー」とは、いったい誰のことでしょうか。どこか遠い、自分とは関係のない場所にいる世話好きなヒトのことでしょうか?たったひとりのヒーローのために用意された言葉でしょうか?

―――いいえ、きっとそれは違います。

 私たちが考えているのは、「演劇」という1つの共通点を通じて『今、ここ』で『それぞれ』が『考え』『行動』することだと考えています。私たちの目指す366日先は、思っているほど遠い未来の話ではありません。『今、ここ』でスタートしなければ間に合わない、近未来のできごとなのです。

 「演劇」は1つの表現方法でしかありませんが、多くの可能性や豊かな要素を含んでいます。そして、何より『ネットワーク』がなければ成り立ちません。戯曲を書く作家、演出家、演じる役者、舞台を統括する舞台監督、大道具、小道具、衣装…そして、『レビュアー』です。

最近、ふと思うことがあるのです。優れた作品と出会って感動し、それについて語ることも表現ではないか、と。『感動』を言葉というカタチに表現することは、劇作家や演出家にも負けない表現者となりえるのではないか、と。そして、優れたレビューは制作者を育て、観客と舞台の距離を縮め(或いは冷静な距離を設け)演劇全体を、みんなが想像もできないエキサイティングな方向、そんな誰も知らなかった(気付かなかった)道へと私たちを連れ出してくれるのではないか、と。

 366.0プロジェクトでは従来のような創り手主導の活動をめざしていません。創り手も、演じ手も、レビュアーも、観客も、それぞれが同じような立場で作用しながら、『今』を見つめ、『未来』の姿を模索していくプロジェクトです。…難しい言葉が続いたかも知れませんが、要は『マジメに、且つ楽しくドキドキしながら未来に進もう!』という、私たちの理想の1つの姿が366.0プロジェクトなのです。

 このプロジェクトの一環として、2006年11月30日~12月2日に名古屋・大須の七ツ寺共同スタジオで私たちのメンバーである東京のカンパニー、shelfが「構成・イプセンーComposition / Ibsen」を上演します。

 私たちは366.0プロジェクトに賛同して、いっしょに伴走して下さるレビュアーを募ります。4カンパニーがそれぞれの作品を展開していく今後の活動には、やはりさまざまな切り口でのレビューが必要です。かめだだけでは、きっとこの混沌と豊穣に満ちた彼らの作品を語るには力不足なのです。「演劇が好き」「いっしょにワクワクしたい」そんな方で、私たちの活動の主旨に賛同して下さる方であれば、どなたでも結構です。ぜひ、ご参加下さいますよう、心よりお願いいたします。

 


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366.0 project とは? [366.0 プロジェクト]

366.0 project は、次世代を担う若手演劇人による共同プロジェクトの名前です。

名古屋・東京の2都市に密着した展開を予定しており、公演・ワークショップ・シンポジウムなどの活動を計画しています。

「366.0」は東海道線の名古屋・東京間の距離「 366.0km」を表した数値であり、明日でもないが遥か未来でもない、366日後という「遠くない将来のリーダー」をめざす、次の世代の意欲をイメージしています。


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shelf 名古屋公演 「構成・イプセンーComposition / Ibsen」 公演レビュー 2006年12月1日 [366.0 プロジェクト]

☆19:00~ 名古屋七ツ寺共同スタジオ
☆演出:矢野靖人/出演:shelf

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 『幽霊』とは、何だろうか?私たちの生きるこの時代における『幽霊』とはいったい、何者なのだろうか?

 客電がついたままの場内。うす暗い舞台上には、5人の役者たちがすでに存在していた。イスに腰かけたり、膝を抱えたまま顔を伏せたりしているが、彼らはピクリともしない。三方向を壁に囲まれた出口のない空間…舞台上には異常ともいえるような張り詰めた空気が流れ、白い衣装を着た女/ノーラ(川渕優子:shelf)が足先を舞台上からわずかにはみ出し座っていることで、舞台空間は外とのつながりを辛うじて保つという奇妙さを漂わせている。静謐なはじまりであった。

 舞台中央には簡素なイスが一客置かれ、そこには愛のない結婚を否定しながらも自らは立ち上がることの出来なかったひとりの未亡人、ヘレーネ・アルヴィングが座っている(三橋麻子:Ort-d.d)。タッチライトに浮かぶ身体の輪郭と、自らの影に沈んだ彼女の顔が一瞬、不気味に微笑んだように見えたあと、彼女の中に同じくイプセンの作品『人形の家』の主人公・ノーラがオーバーラップした。無機質な舞台空間がアッという間に古びた居間に転じる。そこでは彼女と子供たちの弾むような会話が展開するのであるが、子供たちの姿は見えない。彼女の声の抑揚によって、観客は子供たちの存在を感じはするものの、そこに実体はないのだ…アルヴィング夫人の中に棲みついたノーラが、ここで既に過去の遺物として描かれているのだろうか。自らの正義と、真実を求めて愛と家庭(子供を含み)を捨てた女の影が、彼女の中に存在していることが興味深い。

 ト書きが読みあげられ、静止していた人物たちが起動した。「…マンデルス、牧師。」そうコールされたマンデルス(木母千尋:第七劇場)のリアクションはコミカルだが、非常に示唆に富んでいる。彼は自分の名が呼ばれると目覚めたように顔を上げるのだが、「牧師」と使命を受けると驚いたように自分を指さし、そして了解するのだ。これは、この物語の悲劇的な要素の核ともなるべきポイントのように私には思われる。人間は自らの意思で、この世に生まれてくることもなければ運命なるものの存在を知るすべを持たない。私たちの多くはマンデルスのように、無自覚に『自ら』を受けいれていくが、疑問のない受容がどれほど悲劇を生むかということ、この意識が本作品の大きなテーマにもなっていると感じたからである。

 本作品は多くの『異和』を含んでいる。含んでいるというよりも、むしろそれらによって仕組まれた虚構のイリュージョンだといえるかも知れない。

 アルヴィング夫人の息子、オスヴァル・アルヴィング(凪景介:Ort-d.d)の登場などはまさにそれを体現している。彼は舞台上に、観客の見える場所にはじめから存在していたのであるから、その人物が虚構の中の虚構に登場するにはこういった切り口が必要なのかも知れない。静かに舞台奥から歩をすすめ、右手からアルヴィング夫人とマンデルスが会話をしている居間に入って来るのだが、突然大声をあげ、アルヴィングたちの前を転がりながら左手に移動する。立ち上がっての彼のセリフは「失礼――書斎の方かと思ったもんで。いらっしゃい、先生。」というものである。大声で叫び、目の前を転がったあとで「失礼」も何もあったものではない、本来ならば。こんな異和がこの虚構空間では常套ルールとして場を支配し、観客はそのルールを驚きの中でキャッチしながら作品へと入っていく。見えていないもの、見えているもの、見えるはずのないもの…それらが、音楽の旋律にも似たセリフの、独自な解体によって提示され、観客はこういった状況の中で『幽霊』の登場を待つことになる。非日常では説明不可能な存在について、この作品はそれを説明可能にするシステムを持ったといえるだろう。『幽霊』とは何か、冒頭のこの問いがあらわになっていく。

 「わたしたちには取りついているんですよ、父親や母親から遺伝したものが。でもそれだけじゃありませんわ。あらゆる種類の滅び去った古い思想、さまざまな滅び去った古い信仰、そういうものもわたしたちには取りついてましてね、そういうものがわたしたちには、現に生きているわけではなく、ただそこにしがみついているだけなのに―――それがわたしたちには追い払えないんです。」アルヴィング夫人は作品の中で言う。ここで言われている遺伝とは、この作品が発表された時代に1つの衝撃となって受け止められた性病という点への指摘だけではないだろう。現代的な事象に例えるなら、幼児虐待を受けて育った子供のその後や、自殺者を親に持つ子供の未来といったことに置き換えることも可能だ。古び去った思想や信仰への指摘だが、これは(私個人の考えにもよるが)それを享受する人間の側の形骸化である。マンデルスが、自分に牧師という天職が担わされたとき、なぜ何の疑問も苦悶もなく受け入れたのかということと同じである。思想そのものは時代を反映するという点でいえば、確かに古くなる存在であることは否めない。しかし、もっと問題なのはその思想に対する私たちの側の意識ではないだろうか。与えられたことに対して自問自答を忘れ、そこから派生する問題への意識、また感謝を忘れた者に、真のいのちなど存在するだろうか?これは思想の受容だけにとどまらない。『生きる』ことを問い、苦悶し、立ち上がろうとしない人間への警鐘であろう。舞台中央で『幽霊』を恐れるアルヴィング夫人はすでに、生きながらにして『幽霊』と化しているのだ。

 ラストシーン近く。今や、二人きりとなったアルヴィング夫人とオスヴァルは夜明けを迎えながら、徐々に明るさを取り戻しつつある居間にいる。窓からはキラキラと輝く氷河と山々の峰が壮絶な現実をあざ笑うかのように見え、先ほど出て行ったはずの異母兄妹のレギーネ(佐直由佳子:第七下劇場)が、アルヴィング母子の様子を腕組みをしながら見ている。異母兄の、犠牲者としての最期を見つめる目はどこか他人事のようでもあったが、いよいよ兄オスヴァルが発作のあとにグッタリと子供ようになり、母アルヴィング夫人が絶叫するシーンでは悲しげな表情を浮かべた。それは今なお、止むことなく続けられる無自覚な受容と、自ら立ち上がろうとしない私たち自身、その犠牲となって死んでいく何か…そんなものを見つめる視線と重なる気がした。演出家の矢野靖人がフライヤーで観客に約束した『圧倒的なカタルシス』が、もしかしたらここに成就していたのかも知れない。


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shelf名古屋公演プレ企画第2弾/ただひたすらに読むための戯曲を読む講座#1「イプセンを読む」 2006年11月13日(月) [366.0 プロジェクト]

 予定時間より30分遅れて駅に到着した私は急ぎ足で、ワークショップ会場へと向かう。今回の会場「大門庵」は特定非営利活動法人・起業支援ネットの旧事務所になっているとのこと。以前は遊郭があったというそのエリアを歩いていくと、居酒屋などが建ち並び、何となく往時の残香が漂う。
 「大門庵」の看板を見つけてガラガラと引き戸を開けると、以前は「梅乃屋」という居酒屋だったこの建物は、おっとりと時間のとまったようなレトロな雰囲気。不思議な場の雰囲気を味わいつつ、「すいませーーーーん!」と、声をかけた。

 朗読のワークショップだと聞いていたのに、2階ではさっきから“ドタンバタン”と人が動き回る音がしている。おまけに、ときどき楽しそうな笑い声まで。ヘンだなぁと思いつつも、案内のスタッフを待つ。  
 
 2度目に出した大声で、ようやく担当スタッフが降りてきてくれ、2階へと案内される。中では数人の男女が腕を振りまわしたり、よじったりしてにぎやかだ。「…イタタタタ。」とか「ひえぇー、結構キツイなぁ。」とか言いつつ、楽しそうな雰囲気。声をあげている参加者の表情を見ると、みんな額にうっすら汗までかいている。「…そろそろ、身体が起きてきたかな?」矢野氏が参加者の様子をうかがいながら着席を促すと、それはワークショップ開始から、おおよそ30分ほど経過した時刻。聞けば、矢野氏はこうしたワークショップや稽古の前には身体のウォームアップを欠かさないとのこと。参加者は、身体が“起きた”状態で講座内容に入っていく。
 
 参加者は女性6名、男性3名の男女計9名。名古屋で活躍する役者や、先ほど行われたshelf名古屋公演プレ企画第1弾『演劇オープンラボ』に参加したという方、メガトン・ロマンチッカーの作品をよく見に行かれるという会社帰りの男性、当日になって参加者に強制連行(?!)されたという女性の方など個性豊な面々。今回のワークショップはタイトル通り『ただひたすらに読むための戯曲を読む』講座なのであったが、用意されたのは名古屋公演で上演される『イプセン』の『幽霊』。(古典の戯曲と呼ばれるものは書籍になっているとのこと)。参加者それぞれが1冊づつ手にして、いよいよ『ひらすら読むための』講座がはじまった。 
 
 読みはト書きも含めて、最初のページから。適宜、読み手を割り振りながら進んでいく。「…何かを表現しようとするのではなく、ただ“読んで”下さい。ただし、“よく考えて”。(ト書きは)情景が目の前に浮かんでくるように、(セリフは)誰に向かって、どういう状況で言われているのかを、ゆっくりでかまわないので考えながら読んで下さい。」矢野氏の指示を興味深そうに試していく参加者。「…読んでいる人は、ときどき本から目を離して周りの人をよく“見て”下さい。聞いている人は本をそんなに気にしなくてもいいので、読んでいる人を“見て”あげて下さい。…ヘンな昔の話し言葉も文面通り読みましょう。“ふうむ”とか“うっふん”とかも省かない。…集中を途切れさせないで。」矢野氏が指示をするごとに、参加者の「読み方」はどんどん変化していく。しかし、役者として自分なりの方法を持っている方は、やはり普段の自分の読み方が出てしまう。「…じゃ、ちょっと止めましょうか。もう少し落ち着いて読んでみましょう。…14歳になったつもりで。…声を出すかわりにホワイトボードに板書でやってみてもらえる?…肩と首を動かさないで読んでみて。…そうそう、動かさないで。」矢野氏は状況によって指示を変えつつ、自らは本と参加者をよく“見て”いるようだった。…読む講座といいながら、その場にいる人たちは人と本のそれぞれを非常に集中しながら“見て”いるのが印象的だ。不思議なのだが、この“見る”という行為が緊張感を生んでいた。“見る”ことによって、相手との距離を意識するのかイスをわざわざ離す参加者があったり、出来事の自然な“間”が生じたりして、思いがけないリアリティが立ち上がったのだ。この本を初めて読むという参加者がほとんどという状況で、これはとても興味深い現象だと感じた。終盤は矢野氏がト書きを読み、コントロールパワーのような不思議なト書きの流れに、読み手が巻き込まれる形で時間切れとなった。

 参加者からは「古典を読むっておもしろいですね。」「事前に少しだけ読みましたが、楽しくなかった。みんなでこうして読んでみるとすごく楽しく感じました。」「自然に(演技)しようと思ってやっていたけど、何が自然なのか分からなかった。だけど今日、何だかスッキリしました。」などの感想が述べられた。時間は大幅に予定を越えてしまったが、会場を出た後も参加者同士で話しこんでいたり、矢野氏と踊りながら(?!)会話している参加者がいたりと、終盤の興奮が参加者からは抜け切れていない様子だった。この盛り上がりからみて、このワークショップは成功だったのではないだろうか。矢野氏自身も「実は今回のワークショップは初の試み。でも、すごく楽しかった!」と笑顔を見せている。

 間近に迫った名古屋公演 「構成・イプセンーComposition / Ibsen」で矢野氏の演出像がいよいよ明らかになる。見逃せない公演になるはずだ。


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NEVER LOSE 『4人の為の独白。』 2006年11月12日(日) [366.0 プロジェクト]

☆13:00~ 千種文化小劇場
☆366.0プロジェクト スペシャルアクト4×2
☆NEVER LOSE 『4人の為の独白。』

 NEVER LOSEは、主宰の谷本進と作・演出を手がける片山雄一が中心になって活動をする東京拠点の演劇カンパニー。「演劇を知らない人達に観てもらいたい」「演劇に対する概念を変えたい」「向こうが劇場に足を運ばないのなら、僕らから会いに行こう」そんな考えから、普段はクラブやライブハウスでも上演を行っているという彼ら。名古屋初上陸の作品は今回が初めての劇場公演だという『4人の為の独白。』で挑んだ。自らのことを「媚びず、悪びれず、現状を打破して前に進もうと、もがき続けるストイックな演劇集団」だと名乗るこのカンパニーのネットワークには、アパレル業界や音楽関係者にも強いフレンドシップがあるのだという。クールでスタイリッシュな印象のメンバーたちには、どんな想いがこもっているのであろうか。

 真っ暗な舞台に、爆音が響き渡る。…ガンガンの、ロック。どのくらいであるかは分からないが、かなり長い間この暗闇と爆音の状態が続き、突然止まる。「シーン」と、静寂が耳を襲ってくるような感覚に、どうしようもない不安を感じはじめるころ、明転。千種文化小劇場の円形舞台に、ふたりの男が入って来る。ひとりはパイプイスの背もたれに腰をおろし、もうひとりは地面にすわる。長い長いセリフが、叫ぶような悲痛な発声ではじまるのだった。
 ひとり目の男は自分に起こった出来事を叫ぶように話している。しかし視線はすわっている男には向いておらず、口調も何だか不自然である。告白のような叫びが怒りに変わり、9・11事件での個人的衝撃、ヴァーチャル世界でナンパするどうしようもない自分自身などを語っていく…そう、これは誰かに話しているのではなく、彼自身の「独白」なのであった。あまりにも激しく叫ばれるセリフに翻弄されて、観客ははじめそれが独白だとは理解出来ないのであるが、ふたりの男のスレ違う言葉の方向に、それが叫びに変わるほどのエネルギーを秘めた独白だと再認識する。身体の不思議…とでも言えば良いだろか。激しく叫んでいる役者の身体に、悲しいほど切ない静寂が浮かび上がってくる。演劇でなければ成立しない、身体という共通媒体を持たなければ感覚的に理解出来ない状況が展開されていく。

 主宰の谷本をはじめ、演出の片山は『僕らは名古屋だろうが東京だろうが、あまり問題にしていません。』と言い切る。現にかれらは東京以外に岡山などでも活動の輪を広げ、理解者を確実に増やしている。これは筆者の独断的な感覚に拠るかも知れないが、パイプイスで叫んでいた男の独白「周りを見渡せば情熱だけで東京に来たような田舎連中ばっかで、-中略-俺、邪魔者じゃん!」というセリフの裏に、彼らが意図せずして自らに現代社会の一端を投影しているように思えた。
 男は東京に住んでいるのであったが、地方出身者であふれた所属の専門学校に馴染めず、退学する。一見このセリフは地方出身者を軽蔑したような言葉にも受け取れるが、男の立場にたって読み取ると、ゾッとするような不安が底流にひそんでいると気付くのだ。自分の住んでいる場所(彼にとっては東京)が、どんどん他者によって浸食されていく恐怖がそこには流れ、オリジナルの不在に戸惑う自分がいる…翻って見つめ直せば、現代社会は「日本」という私たちひとりひとりを繋ぐオリジンを見失っているとは言えないだろうか。何が日本らしくて、どういう者が日本人らしいと言えるのか…。NEVER LOSEというカンパニーが、拠点にこだわらず活動を展開しているのは、「オリジナル」という既成概念さえ越えていこうとする彼らの熱い情熱なのかも知れない。

 アフタートークでの片山と谷本の言葉が印象的だ。筆者の鑑賞した回は劇場の客入りが伸びていなかった。そんな客席を眺めて「…コレが、名古屋の現実です。」と片山は言い、その後で、谷本は「…ココが、名古屋の真ん中だと思って今日は来ました。バクダンを、落としました。」と想いを述べ、両者の間のバランスの妙がにじんでいた。
 
 NEVER LOSEという熱が、名古屋にも飛び火することを願いたいと思った。


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メガトン・ロマンチッカー『マイ・フェーバリット・バ─────―ジン』  2006年11月11日(土) [366.0 プロジェクト]

☆19:00~ 千種文化小劇場
メガトンロマンチッカー 『マイ・フェーバリット・バ─────―ジン』
 作・演出:刈馬カオス/出演:メガトン・ロマンチッカー 

 名古屋の人気演劇カンパニーの1つであるメガトン・ロマンチッカー。彼らの公演が行われた千種文化小劇場を訪れると、まず観客層に驚いた。ずいぶん若い観客が多いと感じたのだ。刈馬の扱うテーマは今回の『マイ・フェーバリット・バ─────―ジン』では「障害者向けデリバリーヘルス」であり、前回の『モンスターとしての私』では作品構想直後に偶然起こった佐世保での小学生児童による同級生殺人事件と1997年に神戸で起きた酒鬼薔薇聖斗事件を絡ませた作品など、非常に重いテーマである。それにも関わらず観客層に若者たちが多いというのは、重いテーマながらもそれらを(刈馬いわく)『冒険演劇』や『恋愛演劇』と銘打って、ポップに仕上げていることに起因しているのではないだろうか。

 メガトン・ロマンチッカーは劇作家・刈馬カオスの個人ユニットとして2000年に発足したカンパニー。2年間の公演ブランクを挟んで、劇団として再起動している。『…ある場所に感動したとします。例えばそこは春風吹く草原。草の音が心地よく鼓膜を震わせるでしょう。その喜怒哀楽ではカテゴリできない種類の感動を、どう処理したらいいのか。その場所と空気の機微。そして私と世界という関係性。私たちはその再現性を求めて活動します。場と空気に重きをおき、ただそこに存在すること。そして生まれる劇的関係。私たちは存在することに最注目して、演劇という表現にこだわります。そして絶望と、それでも希望を捨てきれない人々のノタウチマワる姿を見つめる。-後略-』カンパニーの公式サイトの「はじめに」にはこう書かれている。
 『絶望と、それでも希望を捨てきれない人々のノタウチマワる姿』今回の作品は、この言葉をとても如実に体現していたように感じた。

 円形舞台。4~5つのカラフルな背もたれのデザインチェアーと、真っ赤なソファが置かれている。舞台中央にはリンゴが1つ。沈痛な面持ちで登場した男はリンゴを手に取るが、じっとリンゴを見つめたまま戸惑うように動かない。後から登場した男がチェアに腰かけた女たちとともに、リンゴを手にした男にも手にしたコンビニ袋から缶ジュースを1本づつ手渡していき、リンゴは忘れ去られたように暗転の中に消える。「プシュッ」と缶ジュースが開く音…。
 物語には中心がない印象で、「障害者向けデリバリーヘルスの事務所」内の人物たちがさまざまに人間関係を絡ませながら展開する。「死」と「性」に関するキーワードが印象的なセリフとして置かれていくが、部分的にセリフと登場人物との間にキレツのような違和を感じた。セリフを発するときの役者の身体にもう少しの葛藤が欲しいところか。

 ラストシーン。男は冒頭の終盤と同じように舞台中央に立ち、女たちもはじまりと同じようにチェアの前に立っている。冒頭では床にあったリンゴがここでは天井から激しく落下し、「ゴツッ」と鈍い音をたてて潰れる。再び缶ジュースが配られ、暗転後に缶ジュースの開く音と自殺した女のセリフが切なく響く…。刈馬は「缶ジュース」に現代の「パンドラの箱」をイメージしたという。現代らしいモチーフに「希望は残りえるのか」という問いをこめているのだろうか。

本作品は「障害者向けデリバリーヘルス」という難しい問題をテーマにしているようだが、刈馬は『描きたいのは-中略-「心と身体の割り切れなさ」…』と語っている(公演リーフレットより)。重いテーマを突破口として選び取りながらも、素直な「今」を表現しているのかも知れない。「今、感じること」を「心と身体」の関係性から炙り出し、「リンゴ」という象徴を用いながら両者をつないだ。
リンゴは智恵の実であり、「禁断の実」でもあった。男は女の誘惑(女はヘビの誘惑)によってそれを口にし、楽園を追われる=原罪)。セックスが、神の一部から創られた原本・アダムの再生産行為だとしたら、私たちはセックスという複写行為により、この身体に原罪を受け継いだのかも知れない。原初の罪を経験せずにその重さを知っているという感覚は、実体験を得ずにヴァーチャル体験によって不知を既知しているという私たちの生活と重なってはいないだろうか。「セックスしてえなぁ!」繰り返されるそんなセリフの連続に、そんな虚しさを思わせられた。


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shelf AAF戯曲賞ドラマリーディング 『大熊猫中毒』 2005年8月25日 [366.0 プロジェクト]

☆19:00~ 愛知県芸術劇場小ホール
☆AAF戯曲賞ドラマリーディング 『大熊猫中毒』
☆演出:矢野靖人/出演:shelf 

 バラバラの方向に立った役者たち。「イスに座って戯曲を読む」という従来の「ドラマリーディング」ではないはじまり…。舞台上には戯曲中に登場する人物たちが、最初からそろっているという状況。このはじまりに立会い、「戯曲の中には、すでに完結した物語が存在している。」ということを改めて感じさせられた。役者1人1人が登場人物をすでに内包し、そこに立っているという事実…本来は演劇の底流に潜んでいる“戯曲台本”という存在を逆手にとって、その構成までを舞台上に置いてしまうというこの試みは、「リーディング」という規定を、かえって新たな可能性に変換してしまっているように思えた。

 うなり声か、単なる発声なのか、「…ウォーーーーーーー…」という低い声が役者たちから発せられ、1人1人の声がひとつの大きな山のように重なった頂点でフッと、止む。ダンスなのか、演劇なのか、無言のままのパフォーマンスが派生しながら舞台は進展。「…カナリヒトケノナイバ・ショニアルイテ…」言葉を解体したようなセリフが発せられたのは開演後、おおよそ15~6分は経過していたであろうか。リーディングと言いながら、本作品はセリフだけを主体としていないらしい。『身体と身体の一部としての言葉との関係、言葉の発生する現場を炙り出す』ということを意識して作品づくりを続けている矢野。その試みが作品のあらゆるところで浮び上がる。  
 役者のセリフだけではなく、ト書きすべてが読まれつつ物語を展開していくという点も、本作品の特徴だったであろう。リーディングとは違う一般的な演劇作品の公演でのト書きと言えば、セリフとセリフを繋ぎながら役者たちを物語の流れの先へ運んでいくというようなイメージがある。しかし本作品でのト書きはそうではない。舞台上、バラバラに立った登場人物たちの中を1人の役者が歩き回ってト書きをぶつけていく。ト書きが次のアクションをうながす原動力になっているという、戯曲の機能が視覚化されたような不可思議さが立ち上がる。橋渡しとしてのト書きではなく、コントロールパワーとしてのト書きが、不気味な在り方を示してくるのだ。
 
  「セリフ」というものの在り方、「演劇」というものの持つ表現力、このことについて、今回の作品はマジメに問い直しをしたのではないかと感じた。

 第6場。主人公ノボルが思いを寄せた祐一郎(女子高生)と星空の下で会話をするシーンは非常に興味深い。ノボルがセリフを言う…と、祐一郎がポソポソと何かつぶやく。観客ははじめ、祐一郎が何かを言ったのかどうかも分からない。そしてまたノボルがセリフを言うと、また祐一郎が何かつぶやく。そうして、やがて祐一郎がノボルのセリフを繰り返しているのだということに観客は気付く。戯曲台本に含まれえなかった新たな物語の可能性さえ感じさせるこのシーンでは、やがてノボルよりも先に祐一郎のつぶやきがノボルのセリフを語りはじめる。これは「戯曲」という完成した世界があるということを明示した冒頭の伏流があって、クッキリと示される点であったように思う。


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